東大院とミニマリスト

東大生とミニマリスト

その1

 

わたしは、女だ。そして、女である以上、男が好きだ。

ただ、うまく愛し方がわからない。あの人はかっこいい、素敵だ、近づきたい。そう思うことはあるが、付き合った先の男女の性行為に思いを馳せると、キモチワルク…というより、脳が拒否反応を示して思考停止してしまう。

だから、はじめはプラトニック信者だと思っていたが、性行為自体に興味がないわけではなかった。むしろ興味があった。誰かの美しい裸の静動画を見ては、興奮していた。ただ、自分を反映し考えると、無性にキモチワルクなってしまうのだ。

だから、男性と付き合えないと思っていた。でも、愛には強い関心があった。

 

一時は、自分を同性愛者かと思っていた。

男性同士の恋愛というのは、とても美しいと思った。叶わない危なげな倒錯愛。いろいろな感情が渦巻き、この世界の創生来の仕組に従う背くで生命を脅かすほど悩み、苦しみ、パラレルワールドに思いを馳せ、そして思い思いに咲き散っていく物語。

自分が男だったらと何度思ったことだろうか。

女性同士の恋愛には一切の興味を抱かなかった。女には穴しかない。これでは性行為ができない。それにやはり自分を投影すると、吐き気がした。

 

だから、一生懸命男を愛そうとした。男が好きなはずだ。私は男が好きだ。

端正な顔の優しく男気がある私を守ってくれる男が好きだ。

熱中した、完璧を探した、興奮した、妄想した。

でも、どこか、空虚な自分がいた。

虚しさを認めない。認めたくない。

異常な通常な自分を欲した。

でも、無理だった。

 

 

 

鏡を見た。写真を撮った。美しい。

この角度じゃない、もっとまつ毛を見せる。きれいな目を見せる。

いとおしい。

いとおしい。

なんども写真を見る。

いとおしくて、狂いそうだ。

画像フォルダーの私の写真を、見つめる、私。

わたしをみる、わたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは、私を 愛しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、自分が好きなのだ。

満たされる。自分を見て満たされる。

自分しか目に入らない。空虚さは、もはやない。

私の中は、私の目、私のえくぼ、頬、毛の一本一本で充溢している。。

 

 

わたしは、私になら、触れられる。

指を、入れ、熱を、感じる。

 

 

これが、愛だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この現実を受け入れるまで、今日まで、非常に長い年月を送った。

心の滓が流れていく。私は、私が好きなんだ。

 

徒然

睡眠をとることで、目覚めている時間を非常に有意義に過ごせることを知った。

自分はショートスリーパーだと思い込んでいたが、実はロングスリーパーだった。今朝知った。8時間寝た後の目覚めの素晴らしさよ。今の時間まで過ごしてきた今日の素晴らしさよ。もうすぐ終わりを迎える今日の素晴らしさよ。

私は、今日も早く眠る。早く眠りにつきたい。眠ることは、人生を豊かにする。

徒然

朝は全てのマイナス思考がリセットされていることが多い。

焦ってもしかたがない。

朝型人間に切り替わろうではないか。朝、考える。一日が始まる。コーヒーを飲む。自分を愛する。夜、早く寝る。早く寝ることは素晴らしいことだ。まずは、規則正しいルーティンを送ろう。気持ちは吐き出そう。本を読もう。

徒然

自分をどうしたら認められるのか。

自分の認めたいところは、まつ毛のきれいさ、えくぼ、肌の白さ、以上。

それ以外は、認められない。

努力できない自分も嫌いだ。剥げてる自分も嫌いだ。毛だらけの自分も、汚い乳首の自分も嫌いだ。太っている自分も嫌いだ。すぐ言い訳をする自分も嫌いだ。堂々とできない自分も嫌いだ。

 

嫌いといったのは、久しぶりだ。自分と向き合うことをしばらくしてこなかった。避けてきた。自分は向き合うだけの価値はあるのか。

中学2年から高校1年までの、あの頃の自分が本当の自分で、今の自分は救いようがないと自分で自分にあきらめている。

もうなにしたって遅いんだ。いろいろな社会の、この世界の制約が邪魔をする。あの時ああすればよかったと後悔が私を折檻し、私はいろんな人をねたむ。それが自分を救うことと何ら関係ないとわかってはいながら。

まだ ではなく もう が出てくるようになった。

いつでも、まだ の意識が大事で、自分はまだまだこれからだ、と思うこと。

まずは、あこがれの人に並べるように、やってみることが大事だ。

大事なことは、ぎりぎりまで努力すること。結果第一にはならないこと。中途半端な意識を持たないこと。逃げないこと。逃げることは易いが、逃げ場も限られている。不幸はしょわない。不幸なんてそうそうないのだ。不幸をしょって憐れまれてる自分を期待するより、今をリアルを生きる。心の中の、変な奴が消えて、心の滓が少しずつ流れゆくのを感じながら、わたしは私を大事にしていると強く感じながら、私はわたしを愛する。

徒然

好きなことをして生きていたい。大人になる前は、漠然とだけれど、何の不安もなくなりたい大人になれると思っていた。何不自由なく、幸せな日々を送る自分の姿が容易に想像できた。ただ、実際は、そうすることはできるが、かなりの努力をともなう。そしてその努力は心がえぐられるほどしんどいのだ。私は、自分の脳とうまく対話することができない。対話しようとしている私も、対話の対象も私なのだが、それぞれの私は相いれない。私の中に、私の意志で何とかできない私がいて、それはもはや私なのかと疑いたくなる。ただし、位置は私の中にある。

前者の私は、優しくあるが、後者の私は厳しいのだ。厳しい私は、同時に頭がいい。なぜならば、その私は脳みそだから。

私は問う。私はどうすれば幸せになれるのかと。私は、答えないが、問うだけの私を痛めつけることもない。問うた私は、自暴自棄に陥り、限られた時間の中で、逃げ、体を蝕み、必然的に存在する死へと私をいざなう。私は死にたいわけではない。

私は、ただ幸せに生きたいだけなのだ。ただ、不幸せに生きる人生と、死とを比べるしかできないのだ。不幸せな生は、努力で幸せになりうるかもしれないが、その努力こそが不幸せなのだ。結局、ベクトルがマイナスへ向かう不幸せな時間を過ごすか、ベクトルがプラスへと向かう不幸せな時間を過ごすかの2択で、もちろん後者のほうがより不幸せの度合いは高いが、(だから避けがちなのだが)、だが、生きてみるのも悪くないかもしれない。

この無理やりな答えに導かれるまで、私は、徒然と文を書いてきた。

いよいよめんどくさい仕事へのやる気が少しだがわいてきた。

やろうではないか。高次元で、生きようではないか。