東大院とミニマリスト

東大生とミニマリスト

徒然

朝は全てのマイナス思考がリセットされていることが多い。

焦ってもしかたがない。

朝型人間に切り替わろうではないか。朝、考える。一日が始まる。コーヒーを飲む。自分を愛する。夜、早く寝る。早く寝ることは素晴らしいことだ。まずは、規則正しいルーティンを送ろう。気持ちは吐き出そう。本を読もう。

徒然

自分をどうしたら認められるのか。

自分の認めたいところは、まつ毛のきれいさ、えくぼ、肌の白さ、以上。

それ以外は、認められない。

努力できない自分も嫌いだ。剥げてる自分も嫌いだ。毛だらけの自分も、汚い乳首の自分も嫌いだ。太っている自分も嫌いだ。すぐ言い訳をする自分も嫌いだ。堂々とできない自分も嫌いだ。

 

嫌いといったのは、久しぶりだ。自分と向き合うことをしばらくしてこなかった。避けてきた。自分は向き合うだけの価値はあるのか。

中学2年から高校1年までの、あの頃の自分が本当の自分で、今の自分は救いようがないと自分で自分にあきらめている。

もうなにしたって遅いんだ。いろいろな社会の、この世界の制約が邪魔をする。あの時ああすればよかったと後悔が私を折檻し、私はいろんな人をねたむ。それが自分を救うことと何ら関係ないとわかってはいながら。

まだ ではなく もう が出てくるようになった。

いつでも、まだ の意識が大事で、自分はまだまだこれからだ、と思うこと。

まずは、あこがれの人に並べるように、やってみることが大事だ。

大事なことは、ぎりぎりまで努力すること。結果第一にはならないこと。中途半端な意識を持たないこと。逃げないこと。逃げることは易いが、逃げ場も限られている。不幸はしょわない。不幸なんてそうそうないのだ。不幸をしょって憐れまれてる自分を期待するより、今をリアルを生きる。心の中の、変な奴が消えて、心の滓が少しずつ流れゆくのを感じながら、わたしは私を大事にしていると強く感じながら、私はわたしを愛する。

徒然

好きなことをして生きていたい。大人になる前は、漠然とだけれど、何の不安もなくなりたい大人になれると思っていた。何不自由なく、幸せな日々を送る自分の姿が容易に想像できた。ただ、実際は、そうすることはできるが、かなりの努力をともなう。そしてその努力は心がえぐられるほどしんどいのだ。私は、自分の脳とうまく対話することができない。対話しようとしている私も、対話の対象も私なのだが、それぞれの私は相いれない。私の中に、私の意志で何とかできない私がいて、それはもはや私なのかと疑いたくなる。ただし、位置は私の中にある。

前者の私は、優しくあるが、後者の私は厳しいのだ。厳しい私は、同時に頭がいい。なぜならば、その私は脳みそだから。

私は問う。私はどうすれば幸せになれるのかと。私は、答えないが、問うだけの私を痛めつけることもない。問うた私は、自暴自棄に陥り、限られた時間の中で、逃げ、体を蝕み、必然的に存在する死へと私をいざなう。私は死にたいわけではない。

私は、ただ幸せに生きたいだけなのだ。ただ、不幸せに生きる人生と、死とを比べるしかできないのだ。不幸せな生は、努力で幸せになりうるかもしれないが、その努力こそが不幸せなのだ。結局、ベクトルがマイナスへ向かう不幸せな時間を過ごすか、ベクトルがプラスへと向かう不幸せな時間を過ごすかの2択で、もちろん後者のほうがより不幸せの度合いは高いが、(だから避けがちなのだが)、だが、生きてみるのも悪くないかもしれない。

この無理やりな答えに導かれるまで、私は、徒然と文を書いてきた。

いよいよめんどくさい仕事へのやる気が少しだがわいてきた。

やろうではないか。高次元で、生きようではないか。